西本願寺(にしほんがんじ)|Genealogical Research
西本願寺(にしほんがんじ)は、正式名称を「龍谷山本願寺(りゅうこくざん ほんがんじ)」といい、浄土真宗本願寺派の本山です。日本仏教史上でも極めて重要な位置を占める寺院で、京都市下京区堀川通花屋町下ルに所在します。以下にその来歴を時系列でまとめます。
🔹 西本願寺の来歴(概略)
年代 | 出来事 |
---|---|
1272年 | 親鸞の娘・覚信尼が、親鸞の遺骨を安置し、廟堂を建てたのが本願寺の起源(東山・大谷) |
1321年 | 覚如が本願寺を一宗派として整備、門徒制度を確立 |
1478年 | 蓮如が山科に本願寺を建立(山科本願寺) |
1532年 | 山科本願寺、法華一揆により焼失 → 大坂・石山に移転(石山本願寺) |
1580年 | 織田信長により石山本願寺が焼け落ちる(石山合戦終結) |
1591年 | 豊臣秀吉より京都・堀川六条の地を拝領し、「本願寺」を再建(ここが現在の西本願寺) |
1602年 | 徳川家康が本願寺を分裂させ、**東本願寺(真宗大谷派)を創建 → 本願寺は西本願寺(本願寺派)**と呼ばれるようになる |
1876年 | 学制改革により「龍谷大学」を設立(西本願寺を母体) |
1994年 | 「古都京都の文化財」として西本願寺がユネスコ世界遺産に登録 |
🔸 宗派としての特徴
- 宗派:浄土真宗本願寺派(開祖:親鸞聖人)
- 教義:阿弥陀仏の本願を信じ、「南無阿弥陀仏」と称えることで救われる(他力本願)
- 宗祖:親鸞(1173年 – 1263年)
- 本尊:阿弥陀如来
🔸 建築と文化財
- 御影堂(ごえいどう):宗祖親鸞の像を安置する大伽藍(国宝)
- 阿弥陀堂:本尊阿弥陀如来を祀る
- 書院・飛雲閣・唐門など、多数の国宝・重要文化財
- 桃山建築の粋が随所に見られる
🔸 豊臣秀吉・徳川家康との関係
- 豊臣秀吉が宗教的安定を重視して西本願寺に広大な土地を与える
- 徳川家康は本願寺の権力を削ぐために東西分派を行い、現在の東本願寺(大谷派)を創建
🧭 まとめ
西本願寺は、単なる寺院ではなく、日本の中世から近世にかけて宗教・政治・文化の中枢を担った巨大な宗教勢力です。現在でも全国に1万以上の末寺と数百万の門徒を抱え、仏教界で強い影響力を持っています。
親鸞(しんらん、1173年〈承安3年〉~1263年〈弘長2年〉)は、日本仏教史上最大級の宗教改革者であり、浄土真宗の開祖です。彼は既存の仏教制度や戒律中心の修行観を根底から問い直し、「阿弥陀仏の本願にすべてをゆだねる信仰(他力本願)」を説き、庶民に広く信仰の道を開いた人物です。
📜 親鸞の略歴
年 | 出来事 |
---|---|
1173年 | 京都にて誕生(父:日野有範、藤原氏の一族) |
9歳 | 比叡山に登り、天台宗で出家 |
約29歳 | 法然の門下となり、専修念仏に帰依(このとき「親鸞」と名乗る) |
1207年 | 念仏弾圧により流罪(越後へ) |
約1211年 | 流罪赦免、関東へ布教に向かう |
約1235年 | 晩年は京都に戻り、著述活動に専念 |
1263年 | 京都にて90歳で入滅。遺骨は娘の覚信尼により大谷に安置される(後の本願寺) |
🧭 教義の特徴
🔸 本願念仏
- 阿弥陀仏は「すべての衆生を救う」と誓った本願(第十八願)を持つ。
- 人間の力(自力)ではなく、阿弥陀仏の力(他力)を信じ、「南無阿弥陀仏」と称えるだけで往生が可能。
🔸 絶対他力
- 人間の煩悩や業の深さを直視し、自らの力で悟りを得るのは不可能と認める。
- だからこそ、仏の救いにすべてを任せる姿勢こそが正しい信仰とされる。
🔸 悪人正機
- 「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
- 人間の本質的な愚かさ・罪深さを認める者こそ、阿弥陀仏の救いにふさわしいとする。
📘 主著
- 教行信証(きょうぎょうしんしょう)
→ 親鸞の主著。阿弥陀仏の本願、念仏の意義、人間の救済を体系的に述べた。 - 歎異抄(たんにしょう)(弟子・唯円による)
→ 親鸞の言葉を記録した書。彼の思想の核心が端的に表されている。
🙏 なぜ画期的だったのか?
従来の仏教が僧侶中心・修行中心だったのに対し、親鸞は
- 「僧侶でなくとも救われる」
- 「出家しなくてもよい」
- 「念仏一つで誰でも救われる」
と説いたことで、庶民に開かれた宗教改革を成し遂げました。
🏯 後世への影響
- 親鸞の教えは、門弟・覚如・蓮如などを通じて全国に広がり、現在では浄土真宗として最も多くの信者を持つ仏教宗派となっています。
- 本願寺(西本願寺・東本願寺)の礎を築き、日本仏教の一大勢力となりました。
親鸞は、人間の不完全さを前提としつつ、それでも救いを得られる道を説いた哲人です。