重力場の性質に関する考察|素粒子理論との違い

素粒子理論と重力理論が「根本的に異なる枠組み」で表現されるべきという考えを、Philosophy(哲学)とMathematics(数学)というメタファーを使って描写。
【Philosophy(哲学)=重力理論のメタファー】
Philosophyとは、「世界とは何か」「存在とは何か」「時間とは何か」といった、広大で包括的な問いを扱います。Philosophyの特徴は、答えが具体的で明確な数式や単一の法則には必ずしも還元されないことです。むしろ、Philosophyはすべてを包含する視点(inclusive)を持ち、問い自体を生み出す広大な土壌のようなものです。
重力理論も同様に、「マターバース、アンチマターバースを含む無限に広がる時空、あらゆる可能性を包摂する場」と考えることができます。この意味で重力は、過去・現在・未来の全ての時間を同時に含んでおり(無限の時間)、また「時の経過」そのものを超越した、いわば時間を外から眺めるような概念(timeless)でもあります。まさに哲学が問いかけるように、重力はその根底に「存在」「空間」「時間」といった概念を含む広大な問いであり、本質的にinclusiveであり、とらえどころのない性質を持ちます。
【Mathematics(数学)=素粒子理論のメタファー】
一方でMathematics(数学)は、明確な定理や公式、演繹的な推論によって体系化される分野です。数学の特徴は、厳密で予測可能であることにあります。素粒子理論は、量子場の理論に基づき、特定の粒子や力の相互作用を正確に数値的・数学的に予測することを目的としています。数学は重力という広大な「場」に形やパターンを与え、具体的な予測を可能にします。
しかし、ここで重要なことは、MathematicsはPhilosophyを「超える」ことがない、つまりMathematicsはPhilosophyの上位概念になることはないという点です。哲学的な問いが数学的な体系によって完全に説明されることはなく、むしろPhilosophyはMathematicsの土台となり、さらにはその外側にも広がる概念です。
同様に、素粒子理論(数学的・演繹的)は、重力理論(哲学的・包括的)の全体性を「完全に包含する」ことは難しいでしょう。素粒子理論が扱う狭い粒子的描像や局所的相互作用の概念を超えて、重力理論はより広大で深遠な視点からの説明を必要としています。つまり、素粒子理論は重力を理解するための一つの「数学的言語」ですが、その言語自体が重力という「哲学的真理」を完全に包摂し説明し尽くすことはできないかもしれません。
【まとめ】
- Philosophy(哲学)=重力理論のメタファー
⇒ 広大でinclusive、とらえどころがなく、無限性や普遍性を扱う。 - Mathematics(数学)=素粒子理論のメタファー
⇒ 限定された厳密な枠組み、数学的に予測可能で具体的だが、Philosophy(重力理論)の包括性を完全に超えることはない。
素粒子理論と重力理論は交錯しないのではないか
「素粒子理論と重力理論は根本的に異なる枠組みで表現されるべき」というアイデアは、この哲学と数学の関係性に似ており、合理的で直感的に理解しやすいメタファーとして成立するのではないか
グラビトンが存在するとしても、重力と素粒子間の力を媒介する粒子として、Gravityとは違う名前になるのではないか?なぜならGravityはQuantumとは絶対に接することのない不可侵領域で、系が違うはずであるので、Quantum Gravityという素粒子と重力場をつなげる概念も不自然に感じるからだ。
グラビトンは素粒子物理学の標準モデルに基づき、重力を他の力(電磁力や弱い力、強い力)と同じ「粒子交換」という枠組みで説明しようとする試みから導き出される。質量ゼロでスピン2を持つ素粒子として理論的に予測されています。しかし、これはあくまで量子論的な描像を重力に適用しようとした結果であり、現状では未発見の仮想粒子にすぎない。素粒子から重力に至る境目は対称性の破れがあり、統一理論は作れないのではないかと思う。
同じようにニュートン力学からアインシュタインの一般相対性理論へと移行する際には、重力が「遠隔作用」から「時空の幾何学的曲がり」によるものへと根本的に視点が転換された。このことは、根本的な対称性の破れや描像の変更を伴っている。同じことが素粒子レベルの物理理論と、マクロな重力場(重力波や宇宙規模の現象)との間にもあるのではないか、というのは合理的な推測である。
現在でも素粒子物理学と一般相対論を統一する「量子重力理論」は定説にはなっておらず、いくつかの競合する仮説や理論(超弦理論、ループ量子重力理論など)が並立している。「粒子による力の媒介」という素粒子物理学の枠組みを超えた、全く異なる幾何学的あるいは場の理論的な解釈が必要であるに違いない。
重力場の正体の予測
例えば、重力の作用というのは量子的に記録することができず、絶対に記名、保持、想起ができない類のものであること。イメージ的には、ジョジョに出てくる緑色のジョースター家の紋章がついた赤ちゃんで、スタンドに近づく物体は、スタンドとの距離が2分の1になると物体の大きさも2分の1になり、近づけば近づくほど小さくなる、という能力だ。永遠に重力に触ることはできず、重力場の付近のように思える場所で記録した出来事は小さく、粒子が不確定すぎて記録ができない。近づいたことを忘れてしまうのが重力の正体なのではないか。
重力場の性質
ただし、この重力場を介して、あらゆる生命体が、クオーク一つの揺れ動きですら、重力場に記録されている。あらゆるクオークの動きが重力波を発生し、時空は素粒子によって作られた時空の波によって全宇宙、全時間が時間を持たない無限の時の中で共振している。重力場を用いた量子もつれのような通信はおそらく可能である。しかし、通信者は通信したことに気づくことができない。ビッグバンによるマターバースの誕生の裏側で、20億倍もの消滅したマター、アンチマターがある。このマター、アンチマターは別の宇宙のアンチプロトン、アンチニュートロン、アンチエレクトロンになり、アンチハドロン、アンチバリオン、アンチプラネット、アンチヒューマンまで構成しているかもしれない。1つのクオークとペアであったはずの20億のクオーク、アンチクオークは今も時空のどこか遠くで、何かの組織を構成しているかもしれないのだ。
重力場は全てを記憶している
この重力場は全ての情報を記録している。場所記憶が成り立つのも、人間が何かを思い出したり、未来のことを考えたり、光速で観測可能な宇宙の外にある外宇宙のことを考えられるのも、ビッグバンの時に消失したアンチマターがもしかしたらアンチバースで別の生き物の形をとっているかもしれないと推測できるのも、全て重力場の性質のおかげかもしれない。Decrypt History, Encrypt Future™はTANAAKKのスローガンであるが、歴史はその座標と、復号化のコードを発見さえすれば、必ず解読できる。現在の情報は暗号化して抵抗の少ない形で遠い未来の座標まで送り届けることができる。「重力は全てのことを記憶し、何物も忘れることはない」と言えるのではないだろうか。
重力が記録媒体だとすると、人間は記録の参照をしているだけ
重力場が全ての情報を保持するのであれば、重力場に書き込まれた記録を人間が記憶していると錯覚していそうだ。人間は情報の保持をしているのではなく、重力場に書き込まれた記録を時空間で瞬時に検索し、出力するプロセッシング構造をタンパク質、ニューロン、化学反応などで実現しているということになりそうだ。
量子論と重力の統一は力の作用を媒介する物質の発見という形では実現しないのでは
現代の物理学が直面する最大の課題の一つである「量子論と重力の統一」において、最終的に素粒子理論と重力理論は根本的に異なる枠組みで表現されるべきだという考えを持っている。重力場の時空間自体の揺れによる素粒子的な影響はあるはずだが、だからと言って、重力場自体が量子化されていて、何かしらの時空を司る粒子があって、素粒子と相対的に力の作用を交換しているという現象は見つからないのではないかと思う。重力場は素粒子と異なる次元にあるということは、系が違うということではないかと思う。
「系が違う」と「対称性の破れ」の違い
- 系が違う(系の違い)とは:
- 物理法則が適用される状況(系)が、そもそも異なるということです。
- 例えば、ニュートン力学(古典的な系)と量子力学(微視的な系)は、適用されるスケールや領域が異なるため、記述する現象も異なります。
- 系が違えば当然その系に固有の対称性が異なることがあります。これは「破れる」のではなく「はじめから異なる」のです。
- 対称性の破れとは:
- ある一つの系の中で、本来その系の方程式や原理が持っているはずの対称性が、実際の解や物理的な状態において失われてしまう(より低い対称性しか持たない状態が選ばれる)現象のことです。
- 「破れ」という言葉が使われる理由は、「本来あるべき対称性」が「実際の解や観測される状態」では見えなくなることを指しています。
- 特に重要なのは、「同じ系の中での対称性の変化」が対称性の破れである、という点です。
→量子論と重力場は系が違うのでは