1円の価値
2024年12月31日
田中 翔一朗
カネの価値が崩壊しているのは、人類史においてほんの100年間の異例かもしれない
2006年からの18年近く、投資と経営に携わってきたが、1990年のバブル崩壊から2020年前半までの30年間の日本は、地球上の経済の歴史から見ると、金(カネ)の価値が軽視される極めて奇妙な時代の、奇妙な国ということができるのではないか。1990年までの日本は、株主や国民経済、国際経済への価値還元により全世界に恩恵をもたらしてきた、しかし、日本のその後30年間は、ソブリンファンドを筆頭に、グローバル貨幣経済の自由競争を無視した紙幣の濫発と中央銀行による株式市場の買い支えにより、グローバル金利コストを下回る投資収益を全国民、全企業をあげて実現して資本の目減りにも気づかず見過ごしてしまっている。目減りした分は国民に税金として転嫁される形で跳ね返り、運用成績の低い年金基金の責任は運用者に跳ね返るのではなく、運用の失敗とは関係のない将来世代の国民負担へと負の遺産が転嫁されていく。本来であればベンチマークを下回る投資収益は悪であるが、ベンチマークを下回る投資成績、運用成績しか出さなかったとしても、ファンドマネージャーも取締役会も執行役員会も解雇もされなければ、罪として認識されることもない。何事もなかったかのように報酬を取り続け、表面的な報酬開示と実態の報酬が大きく乖離する大企業が多い。中期経営計画、M&A、新規事業、については、数十億円、数百億円の投資をしたとしても、3年経てば担当者は皆、部署が変わり、誰が始めたのかも、いくらカネを使っていくらの損失(または利益)が出たのかすらわからなくなってしまう。このような環境では、自分だけは責任感を持っていると周りと比べたとしても、その責任感の水準があまりに低すぎて、相対比較が全く役に立たないだろう。日本の上場企業の上位10%しかグローバルベンチマークを超えていない中で、調査会社は日本企業の全体平均を取ってROE10%やPBR1倍を標語に掲げてしまっている。本来のベンチマークはその2倍である(S&P500、ROE20%、ROA10%)にもかかわらずだ。(たとえ上場企業であってもパフォーマンス下位9割の上場企業は切り捨て、上位10%に目が行くのが人間であり、機関投資家はそう動く、したがって全上場企業の平均を出すことに意味はない)平均より低い経営成績しか出ていない企業の社員の給与がランキング上位に上がってくるのも問題だ。就活生はROAが低いが平均年収が高い企業を目指す。つまり資本の監視が甘く、先人が築いた資産を食い潰すことが得意な甘い企業から順番に目指してしまうのだ。そのような低ROA企業内で生き残るために必要なことは村社会で嫌わられない飲み会の幹事的な役割であり、それはグローバル資本主義の基本原則と根本的に異なるローカル特化の動きが求められるため、低ROAの企業体の中で出世した人たちが予算申請権を得て、急にROA10%を目指す社内新規事業を初めて成功できる確率はほぼ0%と言って良いだろう。自分の会社やポジションに自信を持っている人ほど、資産の食いつぶしを積極的に推進し、その罪悪性に気づくことなく後輩に語り、若者はそのような人たちに憧れ、周囲の家族や同僚もそれに賛同、助長し、負の習慣を再生産してしまうという悪循環は国家の根幹を揺るがす可能性のある危険現象として、最も危惧するところである。
グローバル基準は投下資本に対する純利益率(ROIC)が、資本コスト(WACCまたはRFR)を上回ること
価値創造は、投下資本に対する純利益率(ROIC:Return on Invested Capital)が、資本コスト(Weighed Avarage Capital CostまたはRisk Free Rate)をどれだけ上回るかによって決まるため、ROAは使える可能性があっても、自社株買いやリースオフバランスなどの本質的事業活動以外のところで数字を改善することのできるROE(Return on Equity)や、キャッシュフローと関係のないPBR(Price to Book Ratio)を指標にすることに経営的な意義はないし、グローバルトップ企業でROE経営をうたっている企業はほぼない。企業の保有するあらゆる資産の価値は営業キャッシュフローにより正当化されるため、より少ない資本(ROCE:Retuen on Capital Employed)で実現できる営業キャッシュフローの増加(KPIであれば少数株主持分を除いた一株あたりのBPS, EPS, Dividendの四半期増加)こそが企業の真の実力である。
昨今では、このようなグローバル経済のルールを無視したカネの垂れ流しの潮流もわずかだが大きな流れの中に戻ろうとしている強い力を感じる。カネというエネルギーを扱うルールのアップデートの速さが加速しているのを感じる。しかし、国内上場企業のほぼ90%以上がグローバルベンチマークを下回るという壊滅的な状況になっている日本の資本家の内部統制はそうそう簡単に変わることを許さないくらいの怠惰の慣性力が続いてしまっているため、勝敗が明らかになるにはまた30年単位の時間はかかりそうだ。その間に新卒から定年まで過ごしてしまう人も多いだろうし、自分の全企業人生を否定して、後輩にエッセンスだけ伝えるのは至難の業だ。長い時間をかけて負の慣性で復活する体力を失い、忘れ去られ、思い出せなくなる大企業名も多く出てくるだろう。しかし失われた時間も金も取り戻すことはできない。一度不利に陥った国がまた不死鳥のように復活する可能性はゼロに近い。子の世代、孫の世代の日本経済、国際競争力は確実に悪化しているだろう。
カネの重み、支出と利益に関する正常な罪悪感を肌感覚で持つにはどうしたら良いか。
日本以外の国における貨幣の価値
日本以外の地球上のほとんどの国では、1円の価値が違う。日本以外のほとんどの国では数億円の損失を出した場合、それがいかに正当な企業行為だったと説明できたとして、法的には問題なくことをおさめたとしても、事故と称した暗殺で終わる例は枚挙にいとまがない。それは数百人の数年分の飯を意味し、労働力という時間=命を意味するのだ。世界主要国ではカネの重みを軽んじた場合、さまざまなステークホルダーからの訴訟、傷害、誘拐、暗殺のリスクは免れないだろうが、一方、現代の日本では、故意でない投資の失敗は損害賠償にも横領にも犯罪にもならず、株主からの責任追求もたかだか年収の範囲内の減給か引責辞任に終わり、個人の損害賠償責任にまで結びつくケースはほとんどない。最悪なケースであってもSNSで批判されるくらいで実害がなく済んでしまう。
日本法の経済規律は甘い
日本の経済規律が緩いことは、投資詐欺を実行するチームが、手を替え品を替え、利益回収の理屈のないスキームの元、繰り返し集金を繰り返しても、首謀者はなかなか捕まりにくいことからも言える。上場企業の内部であっても、他の国では民事的紛争、行政的制裁や刑事的罰則が実行される違法行為だとしても、日本では見逃されていることに追求している論者は少ないだろう。日本以外の国においてはカネは命である。それは今日食べる食べ物の価値であり、日本において小さい金額に感じる損失で、人の身体的な自由や命が奪われることだって往々にしてあるのだ。明治以前であれば、数百名分の数年間の米に値するような価値のカネを誰かから預かって失い、返済できなくなった場合、そのプロセスがどうであれ、理由を問わず、暴行されたり首切りを命じられたのではないか。今の日本においてすら、カネの価値が軽視される時代はもしかするとたった1世紀で終わる可能性もある。
プリンシパルエージェント問題
特に日本の監査法人、経営コンサルティング、システム受託開発、M&A仲介またはブローカーディーラーなどの現場を観察してみると、プリンシパルエージェント問題が多発していることが散見できる。本来、発注者の利益を代弁し、発注者の利益を最大化するために契約している中間者が中間者としての利益を最大化するために、キャピタルマーケッツや投資家の意向とは異なる見解を出したり、両手取引をしたりという未熟なマーケットの状態が継続しているのだ。米SECは1934年という随分前にM&Aに関わる両手取引を禁止しているが、日本ではいまだに両手取引が黙認されている。不動産における両手取引も日本では令和の現在でも規制されていない。システム受託会社の主要なKPIは日次アクティブユーザー数(DAU)やユーザあたりの売上(ARPU)や生涯価値(LTV)の最大化ではなく、発注してもらえる人月の最大化である。したがって、人が増えることが開発会社が目指すところなので、プロジェクトの進みが悪くても根本的な問題として解決しようとはせず、プロジェクトの納品期日までに要求された機能を開発するだけで、それが収益につながるかどうかについては全く実行する気はないのである。監査法人についても、監査証明を出すことが日々の業務であるため、相当な社会的インパクトのあるような財務上の欠陥が見つからない限りは監査意見を出さないということをしない(そうすれば、クライアントを他社に奪われてしまうからだ。)経営コンサルティング会社も、事業の利益が改善するような提案をするのではなく、とにかく自社のコンサルタント稼働率をあげるのが目的であるため、事業利益を向上する提案ではなく、数十回の会議のファシリテーションをするのに大人数を投下したり、高額なシステムの導入などの結論に持っていきたがるのが常である。
長者三代
「長者三代」という言葉は、富が一代で築かれ、二代目に引き継がれ、三代目に至っては失われてしまうという、経済的な知恵を指す。この諺は、単なる家系の話にとどまらず、企業や国家にもあてはまるだろう。そして、日本だけではなく、中国、シンガポール、インドネシアでも同じような諺はあるそうだ。英語圏にもShirtsleeves to shirtsleeves in three generationという言葉がある。ファミリーの資産は三代続かないという意味だ。たった30年でグローバル経済に大きく水をあけられた日本は、あと残り30年経った時に、各国文化圏のことわざ通りの長者三代であったことが露呈する可能性が高い。
カネの重みを感じていくために必要なものは「連想力」
ここからは極論であるが、肌感覚として、カネの重みを感じていくために必要なものは「連想力」であると仮定する。自分がとった支出行動がどのように波及効果を生むのかを考えて、行動に対して反響する影響範囲を特定する「波及的な想像力」があれば、盲目的に組織の習慣を繰り返すことが、もしかしたら自分自身が富の強奪を盲目的に実行している首謀者を知ることのない実行犯であることが認識できるようになるだろう。
株主からカネを託された取締役会における「連想力」
たとえば企業経営者を想定する、ここで「連想力」を発揮するとすれば、極論を言えば「株主から集めた資金は、社会からの預かりものであって、容易に運用できるベンチマーク以上の金利が得られないとベンチマーク以下の部分の金額を強奪したのと同様である」としよう。たとえその強奪により、加害者も被害者も全員が時間を無駄にし、誰も利益を享受した人がいなかったとしても、結果的には富の目的外利用であり、富の増幅という目的に対して結果が伴わないとすれば詐取である。資金を有効活用し、企業を成長させ、株主に還元することは、取締役会の責務である。ROAがWACCを上回ることがなければ、個人や年金基金はそのカネを預ける意味がない。例えば、リスクフリー資産として認識される米国債の年利4%(歴史的には2%)を上回るROAを出している上場企業は日本国内約3950社中の1830社しかなく、さらに、S&P500の平均ROA(Return on Assets)10%を超える日本株銘柄はたったの400社しかない。ドル建てプライムローンレートが8.5%である2024年で、ヨーイドンで横並びの資本規模の経済競争が行われたとしたら、日本の上場企業の90%は全て倒産したはずだ。(プライムローンレート以下のリターンしか出せないため)。Apple, Alphabet, Microsoft, NVIDIA, Meta は日本でもよく名前が上がる銘柄だが、ROA20-70%に位置するこれらの銘柄に並ぶ、ROA20%以上の企業は45社しかなく、そのうち、年商が1000億円、時価総額1兆円を超えている企業は2社しかない。この規模、このリターンでは、日本の企業にカネを置くまでもなく、米国株式のインデックスに無条件に毎月積立するほうが、日本で土地を借りて、建物を建てて、人を雇用して、製品を生産して、営業活動するよりも優れた選択だと言えてしまうのだ。この努力が実らない悲しい現実を直視するとともに、一見「努力している」「頑張っている」ように見える生産販売活動が、先人の闘争や紛争の歴史の上に成り立っている富を時間をかけて食い潰すだけの遊びにしかすぎず、個性や特色、企業文化や企業理念すらも、ベンチマークを超えることがなければ単なるわがままの言い換えに過ぎないということを認識せねばならない。意義、ビジョン、ミッションなどの定義の曖昧な語群をハードルレート以上の成果をあげられないできないことの言い訳にしてはならない。
確率は敗者の言い訳である、奇跡は勝者の定石である
「株主から集めた資金は、社会からの預かりものであって、容易に運用できるベンチマーク以上の金利が得られないとベンチマーク以下の部分の金額を強奪したのと同様である」という「連想」は大企業の新規事業部門にも同様のことが言えるし、資本調達をするスタートアップ経営者にも同様のことが言える。数億を超える資本を投下し、誰にでもできる米国株インデックス投資以上の投資成果(ROA10%)を上げることのできないスタートアップや企業内新規事業はたくさんある。ベンチャー企業と大企業ないスタートアップを横並びで集計した情報はなさそうなので、個人的な経験からくる感覚を挙げれば、研究開発、新規事業と称して1億円以上のカネを投下した1000社のうち995社くらいが資本収益のハードルレートを超えるまで粘り切ることができず、3年以内で諦め、投資しなかった方が良かったですねという結論になっている。さらに、昨今は粘り切ったとして、株式市場にエグジットしたり、ストラテジックバイヤーにM&Aで売却したことにより成果を偽ることも容易である。株価の吊り上げによる株主への還元策は本質的な富の増大要求に対する回答ではなく、営業キャッシュフローの創出なしに企業の投下資本の資産正当性は証明されない。剰余金による配当という現金が返ってくることなしに、一連の投資活動が成功したと結論づけることはできない。最終的には投下した資本に対して、年間10%のベンチマークを超える営業キャッシュフローをもたらすことがなければ、勇猛果敢なチャレンジも、ただの人に迷惑をかけながら時間稼ぎをし続けるだけの遊びとして終わってしまうのだ。イノベーションというのは言い換えると、既存産業を上回る投資収益率、売上成長率、そして既存産業を上回る資本効率を持った漸増的な営業キャッシュフローを生み出すことに対する社会との約束と実行である。そして産業革新を扱っているスタートアップは景気変動そのものを扱うため、景気変動を言い訳にしてスタートアップのパフォーマンスを語ってはならない。「確率は敗者の言い訳である、奇跡は勝者の定石である」皆が沈んでいく中で、たった1000社に1社、たった1万社に1社のパフォーマンスを作りにいくのがスタートアップである。
スタートアップは途中で諦めれば強奪者であり、最後まで突き詰めればヒーローだ
あらゆる投資におけるチャレンジは、十年以上の年月を経て、ベンチマークを上回る営業キャッシュフローによる投資回収で正当化される。そこに至るまでの損失は、最後の成果により全てひっくり返るというのがスタートアップであり、企業内新規事業だ。諦めることなく、粘り続ける経営者に最後の成果が訪れる。それは確率によるチャンスというよりは、適切なゴールを見据えて突き進むものに与えられる当然の報酬である。「確率は敗者の言い訳である、奇跡は勝者の定石である」。会社という法人格の歴史的存在意義はLuckiest possible guesserであり、nondeterministic Turing machineにより21世紀のAI時代において論理的に再現されつつある。スタートアップは途中で諦めれば強奪者であり、最後まで突き詰めればヒーローなのだ。カネを預かってしまった以上、重圧に押された時であれ、迷った時であれ、やり始めたら最後まで、10年単位で突き詰めるほかないのがスタートアップだ。
景気変動は敗者にとって言い訳であり、勝者にとっては商機である
「景気変動は敗者の言い訳であり、勝者にとっては勝機である。」皆苦しいから自分も苦しいと結論づけるのは至って簡単だが、そうならないために日々思索するのが経営者の根本的な責務ではないか。産業革新のコモディティ化により、アセットヘビーな会社がアセットライトな会社に駆逐されるという現象は経済史の中で少なくとも10年に1度は起こっている定例行事で、予測できないことはない。消費者のデマンドサインが変化した時に、ダイナミックにコストストラクチャーを日次、週次、月次で変更するというのは、どのような時代においても当然の経営判断であるが組織がハードルレート以下の低い目標で満足し始めると、昨日やったことを今日も続けることが気楽な判断となり、真の目的がわからなくなるのだろう。会社は時を超えて人々に影響を与えるタイムマシンのようなものでもあるが、現代の活動で培った大切な考え方を100年先まで残存させることのできる企業がそう多くないのも、長者三代のことわざに見られるように、どの文化圏でも起きてしまうエントロピー増大運動であると考えられる。
星は星同士影響を与えあうがお互いに侵食しない
時代の波をかき分けてより高いポジションに位置していく企業は膨大な情報の波の中で真に必要なルールを選び取り、より密度の高いエネルギー体を生み出せるよう、エントロピーを減少させるような、重力の強い組織を形成していく。勝っていく組織はブラックホールと同様に、銀河の中心にあり、恒星と同様に惑星の中心となり星を引き連れる。そのようなエントロピーの減少する組織同士は実は競合しておらず、独自の進化を遂げている。超新星爆発によってブラックホールができる場合にも、周囲の星が引き込まれるわけではないようだ。しかし、大きな重力が生まれることで円運動の重心は変化する。星は星同士影響を与えあうがお互いに侵食したりすることは基本的にはない。
「競争は敗者のゲームであり、ポジショニングは勝者のゲームである」
同様に企業活動の本質は競争ではない。「競争は敗者のゲームであり、ポジショニングは勝者のゲームである」競争は敗者同士のパイの奪い合いである。勝者は競争をしておらず、フォロワーたちの道標となることでマーケット自体を生み出しているため、勝者には数値的な意味での競争(つまり、時間経過や参入激化による資本収益マージンの低下)は訪れない。標高が高いところから標高の低いところに水が流れ、また海の水が蒸発して標高が高い山で雨になる、この位置エネルギー、運動エネルギー、熱エネルギーの循環と、そのエコシステムの拡大に取り組んでいるのが勝者であるため、エコシステムの一部分を取り合う敗者のゲームとは大きくルールを異にする。
スタートアップのゴールは点ではなく、状態である
企業活動のゴールとはサッカーのシュートに見られるようなゴールネットではない。終着は点ではなく状態だ。スタートアップの終着点は、「ベンチマークを超える資本収益率を維持しながら、10年単位の一定期間、不動産バブル崩壊、アジア通貨危機、リーマンショック、コロナウイルスなどの大きな景気の波を乗り越えつつ、四半期で計画的なBPS, EPSの漸増を記録しながら、安定的な配当を株主に現金でもたらすこと」だ。株価は営業キャッシュフローの副産物にすぎない。販売網、調達網、固定資産(インフラストラクチャ)やエンジニアエコシステムなど、強靭なエコノミックモート(経済的参入障壁)を築城することで投下資本に対するリターン(純利益)というスループットの能率性(ネットマージン)を維持する。したがって、一般的に思い込まれているようなエグジット(上場や売却)が資本主義のゴールステータスではない。
格付けAAAの選定基準
S&P Global Ratingsの定義しているAAAの格付けを持つ企業は現状、マイクロソフトとジョンソン&ジョンソンの2社しかない。S&P Global Ratingsの定義は詳細は開示されていないが、数十年にわたる四半期パフォーマンスを定量的に分析し、格付けを決定しているようだ。Capacity to Meet Financial Commitments: This is the core factor. S&P assesses the issuer’s ability to consistently generate sufficient cash flow to cover debt obligations, even under adverse economic conditions.(財務上の約束を果たす能力: これが中心的な要素です。 S&Pは、経済状況が悪い場合でも、債務をカバーするのに十分なキャッシュフローを継続的に生み出す発行体の能力を評価します。)
S&P Global RatingsやMoody’sの格付けをもとに機関投資家やファンドマネージャーが投資ストラテジーを決定し、銘柄選定をしているとすると、スタートアップのゴールステートの着地も一般的に信じられているものとは大きく異なる。上場や売却がスタートアップのマイルストーンとして、資本主義のゴールステート(AAA)が100だとしたら、10くらいの地点(資本調達オプションの多様化を達成)である。ゴールはあくまでベンチマークを超える資本収益性の創出と、漸増的な営業キャッシュフロー創出によるステークホルダーへの還元である。(投資キャッシュフロー、財務キャッシュフローではなく、営業キャッシュフローが重要である。)
投資家との「財務上の約束」の定義が間違っているスタートアップの経営者も多いが、「財務上の約束」を実行できなかったときに責任を追及する投資家もほとんどいない。そのような経営者や投資家たちは、先人が積み上げてきた富や、一人一人の労働者がしっかり働いて得たカネの価値を毀損することに対しての重圧と責任を感じ切れているのだろうか。投資した側は損をした被害者なのでプロセスさえ説明できれば責任は回避できるという間違ったガバナンスとアカウンタビリティはたったこの100年だけの日本に通用する常識かもしれない。100年時代が違えば、損失の結果のみに注目し、投資した人も、経営した人も、その家族子孫末裔まで全員連帯責任で、カネを預けた所有者たちに袋叩きに合うだろう。
遺産を受け継いだ中小企業の2代目、3代目の「連想力」
親から事業を継いだ2代目、3代目社長、土地を受け継いだ相続者も、世の中に監視されている。受け継いだ土地や建物を生かし、社会にさらなる価値を還元することのできない後継者は、表向き地元の名士に見えて、住民の真の信頼は得られていない。誰も何も面とむかって富の増大の責任について言ってこないからといって、それが許されているというわけではないし、どんな田舎の土地であっても、グローバルの資本主義経済から逃れることはできず、空き地のままの土地や、手入れのされていない空き家物件、明らかに時代にそぐわない利回りの低そうな雑居ビルなど、ベンチマークよりも低いリターンしか社会に生み出せていないとしたら、より高いリターンを生み出すことのできる誰かが近くに来た場合にその土地を没収される運命にある。この「連想力」があれば、2代目、3代目どことなく居心地の悪い理由もわかるだろう。
たった60年で富は失われ、後参に追い抜かれる
もし、私たちが現状のまま、過去の遺産である対外純資産にすがり、自国の富をベンチマーク以上に増大するという正しい方向性の責務に対して真っ当に努力せず、一方で明らかな「ズル」として、国際社会に非難されにくい隠れ蓑の低金利、紙幣の濫発、ドル円キャリートレードを既存資本家と結託して繰り返すのであれば、日本の企業はわずか60年でその地位を失い、成長著しい他の国々に追い抜かれてしまうだろう。
アメリカも1974年から復活の兆しを得たが今回の日本とは違う
第二次世界大戦後の1940年代から1970年代までのアメリカも、現在の日本の失われた30年と同様に資本家の固定による低成長が続いたようだ。1974年、Gerald R. Ford大統領時代のEmployee Retirement Income Security Act of 1974(ERISA)からアメリカのスタートアップは変わり、Apple, Microsoft, Alphabetなどの企業醸成の素地ができたと言われる。その後のたった30年間でアメリカの株式市場時価総額の半分以上がベンチャーキャピタルの資本の入った会社に切り替わった。しかし、当時のアメリカの復活の兆しと、現在の日本株式の最高値更新を比較すると、自国民がコントロールしているか、していないかの問題に着目すると、コントローラビリティ(controllability)がない受動的な株価向上であることから主体的であるとはいえず、アメリカと同様にここから30年後に日本が復活すると結論づけることは早計であり、そのようなことは起こらないと考えられる。アメリカの1974年といえば、ボイジャー計画にもあるように、アメリカという国が、spacefaring citizensとして、国の闘争という次元を超えて、地球上の富の管理人となり、さらにはGalactic citizensとして銀河系の知的生命体のリーダーとなろうという機運を作っていた時代である。いまだに自国中心主義である現在の日本とは大きく異なるムーブメントが、1974年のスタートアップエコノミー創出に伴って醸成されていた。Jimmy Carter首相がボイジャー号に乗せたGolden Recordsのメッセージはこれだ。
“This is a present from a small distant world, a token of our sounds, our science, our images, our music, our thoughts, and our feelings. We are attempting to survive our time so we may live into yours. We hope someday, having solved the problems we face, to join a community of galactic civilizations. This record represents our hope and our determination, and our good will in a vast and awesome universe.”
「これは遠く離れた小さな世界からの贈り物であり、私たちの音、科学、イメージ、音楽、思考、感情の証です。私たちはあなたのいる未来の時代に生きることができるように、私たちの時代を生き抜こうとしています。私たちは私たちが直面する問題を解決し、銀河文明のコミュニティにいつか参加できることを願っています。この記録は、広大で素晴らしい宇宙における私たちの希望と決意、そして善意を表しています。」
現在の世界各国の政治的リーダーの中でこのメッセージを書くことができる人はどのくらいいるだろうか?
1円の価値を問い直す
1円という小さな単位は、歴史を積み上げてきた人々の闘争、紛争、試行錯誤とともにあり、企業や国という人類の共同作業の成長と発展が凝縮されている。土地であれ、会社であれ、給与であれ、何一つ自分自身で作り出せるものではなく、カネはそれ自体が社会との誓約である。1円(単位は各国で違うが)も使わずに大人になる人間などほとんどいないだろう。つまり、社会と通貨の関係性の中には、資本主義や社会主義などの政治的イデオロギーに関わらず、地球上全ての土地、財が複雑に絡み合っており、個性や自由を上回る暗黙的な義務を内包している。その義務にあらがおうとしても、10年単位、100年単位の長い時の流れの収束地点に逆らうことができないことは歴史が語る。
チャンスが得られる時代だからといって悪用しないほうがよい
損失を出してしまうこと自体に生命の危機が及ばない現代日本社会は寛容であり、この時代に生まれた企業家や会社員たちは運が良かったとも言える。しかし、運が良かったからといって、本来的なカネの重みを軽視して良いことがあるわけではない。カネはエネルギーであり、間違った回路を設計し、そのまま放置していれば、必ずしっぺ返しが来ると考えて良い。しかも思った以上に速い速度で。自分が取った行動と損失の因果関係を認識することを避けたり、それに気づかずに生きていていいと思い込んでいたら、短いスパンで同じような問題が何度も何度も繰り返す。先延ばしにしたところで、回避できることはほとんどないだろう。万に一の確率でしか起きないような不運なことも必ず起きてしまうものだ。損失を発生させてしまった理由を深く考え、そして、辛抱強く、失ったものを取り返し、残りの自分の人生をいかに社会的価値最大化に捧げられるかに命を注ぐほうが都合よく生きられるだろう。
「空気」のようなアプリオリは否定することができない
通貨とは人類が産んできた社会的協力のトライアンドエラー、知恵の結晶であり、それ自体が発明品であり、磨きに磨かれ意味を持つものだと考えた方が有益だ。今の通貨システムや資本主義がおかしいと主張し、思考停止することは簡単だが、通貨が命や労力の置き換えだとすると、通貨は命そのものを扱っているともいうことができ、貨幣経済に変わるようなメジャーなシステムがない以上、大きな流れを否定したところで現実の直視を避けているに過ぎない。もし仮に、あなたの近くで、「水や空気は人間にとって必要なく、もっと良い太陽の恒星エネルギーを活用できるエネルギー循環のシステムがあるに違いない」といっている人がいたとしても、「さっき水を飲んで、トイレに行って、用を足した後に水を流していたじゃないか」と簡単に反論できるようなものだ。水や空気より良いものが絶対あるに違いないと主張した直後に水を飲んで空気を吸うのだろう。一見正しく、真に正しい公理を否定することは、現実逃避に等しく、小売を否定することになんら合理的なメリットはない。
人は皆、文明の従者であり、運命に隷属する
ある意味、出来上がってしまった社会に生まれた以上、人は皆、文明の従者である。文明の積み重ねてきた研究と発見の上に社会は成り立っている。たった100年の短い人生で人類の歩いてきた歴史という前提条件を覆すことはできない。その意味で、これは文明ではなく、運命と置き換えても良い。現代社会において少しでも、存在それ自身に時間と生命が含まれてしまっている「カネ」という対象を集め始めてしまった人は、その託してもらった魂を受け取り、命を育て、生まれ変わらせる責務を知らぬ間に負っている。これは一般市民であろうと、相続で富を得た人だろうと、宝くじに当たった人だろうと、大統領だろうと、センチビリオネアだろうと等しく同様だ。世界にはフィクサーはいない。力を持った複数の個人や組織が牽制しあっている。ローカルキングはいるだろうが、そのローカルキングもグローバル経済の波にあらがうことはできない。そして、若い時には強い立場で主張できても、その人も必ず老いる。老いた時に弱いところから牙城を崩されるのだ。膨大な富や権力も、人類の歴史、文明、総意にあらがうことはできない。権力は経済的に移転する。得てしまった富をいかに使うかにその者の人格が現れ、それを社会はあらゆる角度から監視している。運命を知り、受け入れることが、運命を変えることにはならないが、運命に争わずに受け入れていくことこそ、勇敢さの表れであれ、諦めの境地とも言える。昨今、取り沙汰される個性や多様性を扱うのは耳ざわりは心地よいのかもしれないが、現実はそのようにはできていない。あなたがいなくても社会が回る可能性の方が高いし、まずはその事実を受け入れるべきだ。自分にしかできない仕事なんてないし、好きなことをやり続けるといっても、好きだと思っていたことも必ず飽きる。交換性や代替性で社会は回っている、事実、さまざまな食べ物や飲み物を貪っている人が、たった一つしかない自分だけにしかできない仕事なんて見つけられるはずがない、選択や行動が自己矛盾している。運命の軌道の上に乗っかりつつも、今このタイミングで何が自分に定められた役割なのかを受け入れ、可塑性を持って適応し、そして、粘り強く、価値創出に向き合い続ける(あるいは自分自身の無価値性を認識することからスタートする)ことで、何物にも替え難いポテンシャルエネルギーの渦が生まれるのではないだろうか。